Part2◆第15話 BREAK O5❐MIZZマスターが閉店ガラガラ時にターンテーブルに載せていた名盤紹介

名カントリーロックバンド ニッティー・グリッティー・ダート・バンドの代表作
《MIZZマスター》
山下達郎さんはこのレコードをいたく気に入っておられていたようで,発売時には友人たちに事あるたびに“コレイイよ!”と言いまくっていたそうです。
DOG TEDDYへのインタビュー音?が含まれるなど,相当にユニークな構成ですが,バンジョーやフィドルを駆使して,アメリカの伝統音楽に根ざした俗に言うところのカントリー・ロックを世に広める先駆けとなったアルバムと言えますね。
“ミスター・ボージャングル Mr. Bojangles”を提供したジェリー・ジェフ・ウォーカーや,“プー横丁の家 House At Pooh Corner”を提供したケニー・ロギンスが,後に注目されるミュージシャンとなったのも必然なるかなだと思います。
Part2◆第14話 山下達郎さん登場

『喜楽』の前で談笑する大瀧詠一さんと山下達郎さん
お二人にはこんなゆる~い時間もあったのかもしれませんネ
後々まで語り継がれることになるスーパースター二人の邂逅は1973年のことです。
二人の音楽に対する情熱の交歓がなければ,音楽の新時代の扉は開かなかったかもしれないですし,ジャパニーズ・シティーポップなるものも生まれていなかったと言われていますね。そもそも,ジャパニーズ・シティポップという呼び名そのものが1970年頃には存在しなかったわけですから。
まさか半世紀余の時を経て,こんなフレーズが当たり前のように日常飛び交うことになろうとは,この頃のお二人には思いもよらなかったことでしょう。
《MIZZマスター》
さて,そうこうしていると,ロックタイム常連組の中にも兵(つわもの)が何人か登場してくることになるのです。
《ひめちゃん》
レコード集めには,今をときめくスーパースター山下達郎さんもひと役買ったそうですけど,達郎さんもその兵のお一人だったわけですね。
《MIZZマスター》
そうなんです。彼の初登場はかなり衝撃的で,今でも記憶に新しいです。
ヤマハの手提げ袋でレコードを次々に持ち込み「自分のコレクションなんですが,こんなレコードもかけてもらえませんか?!」てな具合です。当時まだ明治学院大学に入学するかどうかの頃でしょうかね。
彼の他にも,時流に乗ってロック路線でのひと儲けを企むレコード会社の営業マンなども,サンプル版をドッサリ置いていってくれたりしましたけど…
《ひめちゃん》
達郎さんの話は『ブラックホーク』伝説の一つとして語り継がれてきたように聞いてましたが,それにしてもビッグな話題ではありますね。
《MIZZマスター》
そうですね。
この頃になると『ブラックホーク』も,世間的には完全に”ロック喫茶”と見られるようになっていました。
百軒店界隈でも,『ブラックホーク』の階上にあった『SAV』とお向いの『SWING』の2軒だけは変わらずジャズを流し続けていましたが,アットホームな雰囲気でコアなファンが多かった裏手の『ありんこ』はいつの間にか閉店していました。
《ひめちゃん》
渋谷道玄坂百軒店が,ジャズの街からロックの街へと大きく様変わりしたと言う感じでしょうか?
《MIZZマスター》
いや,そんな風にダイナミックな変化と言う感覚ではないですね。
道玄坂はもちろん,公園通りなんかも,さあてこれから西武と東急の開発合戦が始まりそうなって言ったら多少大仰ですけど,まだまだ混沌としていた時代でしたから。
フレアジーンズにロンドンブーツ履いて,ギターを抱えて,ロン毛なびかせて颯爽と闊歩するといったようなミュージシャン風情なんてそうそう目にすることはなかったですね。
街がそうなっていくのは,やっぱり1971年にライブハウス『BYG』が百軒店に出来てからのことじゃないでしょうか?!
Part2◆第13話 松平さんの思い出❐その9

【イラスト解説】
イージー☆ライダー(原題:Easy Rider)(1969年,日本公開は1970年)
製作・脚本 ピーター・フォンダ デニス・ホッパー
監督 デニス・ホッパー
出演 ピーター・フォンダ デニス・ホッパー ジャック・ニコルソンほか
コカインの密売で大金を手にした二人の若者が,魔改造したハーレーダビッドソンを駆って,カリフォリニアから南部を目指して旅に出る物語。
当時のヒッピームーブメントやドラックカルチャーを織り交ぜながら斬新な切り口で描いたストーリーは言わずもがな,最大の見どころと言えば,疾走する2台の特製ハーレーとの見事な調和で描き出されるステッペンウルフの“Born To Be Wild”やザ・バンドの“Weight”といったロックの名曲の字幕スーパーでしょうか。
他にも,ザ・バーズの“Wasn't Born To Follow”,ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスの“If 6 Was 9”など,センスあふれる挿入曲の効果は絶大で,映画ファンばかりでなくロックミュージックファンをも巻き込んで,アメリカン・ニューシネマの代表作として名を残す要因にもなりました。
『ブラックホーク』でも,当時よく聴かれた曲ばかりで,お客さんの中にはついつい軽ノリしてしまって,口ずさんでしまうような人もちらほら見受けられましたね。
《ひめちゃん》
ともあれ,急展開早回しで『ブラックホーク』は“ロック喫茶”に変身していったのですね。
《MIZZマスター》
当初2時間だったロックタイムも,そのうち3時間になり,4時間になりで,このあたりやや記憶が曖昧ではありますが,1969年末あたりには,オープンからクローズまでロックをかけ通しという有り様となっていたように思います。
《ひめちゃん》
1969年というと,たしか「イージーライダー」という映画が大ヒットしましたね。それから,今なお語り継がれる史上最大のロックの祭典ウッドストック・フェスティバルの熱狂が日本にも押し寄せ,国内の音楽シーンにも多大な影響を与えるようになっていきますね。
《MIZZマスター》
この頃は,詩とかサウンドを云々することなく,アメリカやイギリスのレコード会社で発売されるRock Musicは,とりあえずターンテーブルに載せてみようと試みるつもりでいましたが,さすがに何でもかんでもやるわけにはいきません。
当時は,ヤマハ渋谷店:吉祥寺メルリ堂(担当後藤さん),上野蓄晃堂(担当飯田さん,後に原宿メロディハウスへ)など,有名レコード店の方々からチェックを受けたアルバムが『ブラックホーク』へ提示される形になってまして,私はついつい「後藤さん,飯田さんオススメならいいですよ」と生半可な受け入れ方をしてしまいます。
ところが松平氏は,ここからさらに自分自身の耳(脳)で可否を判断して,「コレコレは返品してください」と選別。「店としてターンテーブルに載せるのには責任を持ちましょう」と静かに答えるんですね。
Part2◆第12話 松平さんの思い出❐その8

(年号の表示は欠落していますが,Led Zeppelinの新譜案内や「Jimi Hen,Dead!」の記事があることから1970年9月の発行と思われます)
《MIZZマスター》
「ブラックホークニュース」は,私(MIZZ=みずかみよしのり)が徹夜厭わずせっせと鉄筆を振るい,今や此の世から消え去った” ガリ版刷り”を駆使して,ほぼ月2~3回発行していた広報紙です。
当時の喫茶店(ジャズ喫茶・ロック喫茶)としては非常に珍しい試みでしたが,「お客のための広報活動は重要だ」「新しいレコードのことをみんなに教えよう」と単細胞的に考えていました。なかば松平氏に無理強いし,彼のロックやフォークミュージックの該博な知識を可能な限りお客さんたちに伝えようという思いもありました。彼も,当初はジャズ愛好から抜け出せておらず,在庫アルバムとロックタイムの増加によって重い腰を上げたという感じでした。
松平氏はと言えば,「売れない三流ロックミュージック評論家としてやりましょう」と自嘲気味に呟いていたような?!
《ひめちゃん》
いえいえ! 舌鋒鋭い松平さん独特の言い回しは,後々も多くのファンを引きつけて止まなかったようですよ。
ただ,一部の出版元やレコード会社の担当者のなかには,一筋縄ではいかない,へそ曲がりな頑固者といった風情を煙たがる人も稀にいらっしゃったようではありますが…?!
Part2◆第11話 松平さんとの思い出❐その7

イラストで松平氏が手に持っているアルバムは,ジャクソン・ブラウンの“Late for the Sky”です。 CSNYやイーグルスと並びウェストコーストを代表するシンガーソングライターで『ブラックホーク』でも70年代最も人気のあった(リクエストが多かった)一人です。
“Late for the Sky”は幻想的なジャケ写真でも話題となったが,CD写真ではその雰囲気を味わえないのが残念。「なんたって30cmLPレコードのあの写真とイラストがイイんだよ」と収集家は口を揃えて言いますね。
《松平ファンの女性客》
「今 ジャクソン・ブラウンの“Late for the Sky”をCISCO(シスコレコード店)で買ってきたんですが,かけてもらえませんか?!」
《松平氏》
「それはさっきかけたばかりです」(本当は世間的人気のLPはあまりかけたくない?!)
「レナード・コーエン(1936~2016)のベスト盤がSONYから届いたのでそれを聴きませんか? “スザンヌ”!名曲ですよ」
というとても珍しい場面に遭遇したことがあります。
数日後,彼女はレナード・コーエンをリクエストすることになります
●ジャクソン・ブラウン(1948〜 )
すでに大人気を博してしまって,リポートの要はないくらいです。著名音楽雑誌,レコードショップの店頭を飾り,深夜放送でも聴かせてくれるほど,『ブラックホーク』においても,リリースされた彼のアルバム全てが“またまた毎度お馴染みのリクエスト”といった状況でした。
71年初めに設立されたアサイラム・レコードは,当代人気のカリフォルニアサウンドを独り占めして,USAヒットチャートはアサイラムからとの勢い。それも当然のこと,イーグルスをはじめ,ジョン・D・サウザー,トム・ウェイツ,ネッド・ドヒニー,ダン・フォーゲルバーグといった当代人気ミュージシャンを全て抱え込んでいましたから。
(「ブラックホークニュースより」)
《MIZZマスター》
松平氏は言いました。
「『1stアルバム』,2枚目『フォーエブリマン』,そしてこの3枚目『レイト・フォー・ザ・スカイ』,以上はすべてお見事! でもこのままだと世間は,彼はただのヒットソングシンガーとしてしか見なくなるのでは」
(「ブラックホークソングノート」より抜粋)
●レナード・コーエン(1934〜2016)
彼の最初のレコードアルバムは,33歳のときの『Songs of Leonard Cohen』(1967年発表)でした。レナード・コーエンの歌の世界,それは当時多くのフォークファン,そしてフォークシンガー仲間にとって驚くほどユニークで魅力的なものでした。
職業的なシンガーでもギタリストでもなかった彼の歌には,詩人で小説家でもあった彼の言葉が,そして声が,自己流のギターの音色を伴って閉じこもっていたと言えましょう。
1960年代後半から70年代初めにかけてプロテストする外向きの歌が全盛だったその頃,レナード・コーエンの出現はフォーク・シーンに美意識の復権と言う 一石を投じたといえます。達人とは言えない,低く,ボソボソとした歌唱は,ヒットチャートを賑わす曲のように単純ではなく,寓話的,宗教的であり,そしてエロティックでもあります。
(松平氏による「ブラックホークソングノート」より抜粋)
Part2◆第10話 松平さんとの思い出❐その6

初来店と思われる青年のリクエストや質問に答えながら 右手左手両手使いで 指先はレコード棚をササッスーッと這って 青年の言が終わらぬうちに「これですね はい!」とアルバムを差し出す
このイラストで取り上げたアルバム
1️⃣英国を代表するフォーク・ロック(こういう言われ方を松平氏は嫌っていました)の代表的なグループであるフェアポート・コンヴェンション(Fairport Convention)のライブ盤
2️⃣スティーライ・スパン(Steeleye Span)の2作目
3️⃣ブリティッシュ・トラッドを強く印象づけたデイブ・スウォーブリック
【このイラストで取り上げたアルバム紹介】
●『Live at the L.A. Troubadour』 1977年
〔英国を代表するフォーク・ロック(こういう言われ方を松平氏は嫌っていました)の代表的なグループである「フェアポート・コンヴェンション Fairport Convention」のライブ盤〕
言わずと知れたフェアポート・コンヴェンションのフルハウス時代のライヴ。アイランド・レコードは彼らとの契約切れで発売したのでしょうが,内容はやはり彼らのピークがこの当時(1970年)にあったことを確認させるものです。
リチャード・トンプソン(ギター),デイブ・スウォーブリック(フィドル)と揃うと,そのインストゥルメンタルなせめぎ合いは凄く,ドラムスのデイブ・マタックスがさらにそれを煽り立てます。その光景は修羅場と言うにふさわしく,一瞬も目が離せないボクシング試合を見る気分です。それを好まない人がいるにせよ,こんな演奏ができたのは当時の彼らだけでしょう。『ブラックホーク』で最もリクエストを受けた1枚です。
(松平氏による「ブックホーク・コレクションレポート」より)
《MIZZマスター》
松平氏は「スタジオ録音のフルハウス同様,彼らのトップアルバムだと思います」と静かに語っていました。彼は,このアルバムをターンテーブルに乗せ,しばしゆらりと曲調に身を任せていたかと思うと,名曲『Sloth』が始まるやかの独占スペースレコード室内で,ある時はR・トンプソンに,ある時はD・スウォーブリック,そしてある時にはD・マトックスに変身し,己の腿をタッタッタンとリズミカルに叩いていましたよ。そして曲が終わるや,「ロックミュージシャンは,みんなこれくらい完成度の高いライブ盤だといいんですけどね」とポツリと呟いていました。
●『Please to See the King』1971年
〔「スティーライ・スパン Steeleye Span 」の2作目〕
スティーライ・スパンは,元フェアポート・コンヴェンションのアシュリー・ハッチングスを中心に結成されたフォークロック・バンドですが,このグループはイングランドとアイルランドの混成バンドと言うことが原因なのか,常にメンバーの離合集散が繰り返されました。
初1970年初めは,決まり文句で言えば“カリフォルニアの青い空”,ジャクソン・ブラウンに代表されるウェストコースト・サウンドが大きなうねりとなって『ブラックホーク』を訪れる若者たちを包み込んでいました。イギリスでは,ハードロックとプログレッシヴ・ロック全盛でしたが,当然ながら『ブラックホーク』ではこれらの音楽を聴くことはできませんでした。そんな中,イギリスの有名フォークロック・バンドフェアポート・コンヴェンションと,ペンタングル(Pentangle)の二組のサウンドは,ブリティッシュ・フォーク中でも 異彩を放っていましたが,彼らは伝承音楽を土台にしている,ならばその原型を演じるミュージシャンもいるはずだ,突き止めようと,松平氏は伝承音楽(トラディショナル・フォーク)をフォローすることに目を向けました。
《MIZZマスター》
当時の松平氏には,“伝統的英国スタイル”に対する憧れがあったようで,映画やテレビなどで「シャーロックホームズスタイル」としてよく目にする,ヘリンボーンのジャケットに帽子,パンツも夏以外はツイードといった装いを愛用していた記憶があります。当然,Tシャツやジーンズなどは絶対着ません。
そんな時節に,スティーライ・スパンのアルバムの登場です。松平氏が,このアルバムをヤマハ渋谷店で購入して店内に戻ってきた時,「これこそが自分の探していたトラッドです!」とやや興奮気味に緊張感のあるトーンで私にアルバムを差し出したのです。そこからです,彼のトラッド・ジャーニーが始まったのは…。
●『Swarbrick』1976年
[ ブリティッシュ・トラッドを強く印象づけたデイブ・スウォーブリック(1941~2016)の名作]
トラディショナリスト(=伝統主義者)としてスウォーブリックは「歌を歌う自分」を認めていません。だからこのアルバムでは歌わないのです。しかし,ここには喜びと生命力に輝く音楽があります。彼のフィドルは,エレキではなくアコースティックです。ダンス・チューンやマーチはもちろん,本来“歌”である曲でも,見事な完成度でスウォーブリックのフィドルは“歌って”“踊って”います。このように生きている音楽は,スウォーブリックの名やトラッドを知らない人にさえ何かの働きかけを持つでしょう。ラスト曲『Arthur McBride』は,かつてトラッド最強コンビと言われたマーティン・カーシー&スウォーブリックデュオのレパートリーを再現したメモリアルトラックです。
(1977年 松平氏による「ブラックホークコレクションレポート」から)
《MIZZマスター》
フィドルは基本的にバイオリンと同じものです。アイリッシュや北欧の民族音楽)や,アメリカのカントリーミュージックなど,クラシック音楽以外のジャンルで使われるバイオリンのことをフィドルと呼ぶ傾向があるようですね。
アイルランドの街の人々はこんなことを言うんだそうです。「フィドルは“踊る” バイオリンは“歌う”」と。
Part2◆第9話 BREAK O4❐『ブラックホーク』1970

《MIZZマスター》
1970年初頭の『ブラックホーク』をご存知ない方や,少し遅れて『ブラックホーク』のファンになられた方には想像がつかないかもしれませんが,店では,レッド・ツェッペリン,グランド・ファンク・レイルロード,ジャニス・ジョプリン,ディープ・パープル等々に加えて,短い期間ではありましたが,ブラックサバスやジミヘンなんかも頻繁にかかっていたのです。
何でもかんでも仕分けしないと気がすまない此の国の評論家先生方は,ハイ!この人は“NEW FOLK”ネ,この人は“WEST COAST SOUND”ネ,そしてこの人は“HARD ROCK”ネ,といった具合にミュージシャンたちをすぐに分別したがる傾向にありますが,当時の『ブラックホーク』のお客さんはそんな垣根づくりを無視するかのようにまとめて“ROCK!”と言っていましたね。
1968年頃からの英米のレコード会社はまさにanything goesといった態で,ROCK MUSICIANモノを次々30cmLPにプレスして世に出していた感があります。
『ブラックホーク』でも,やや網目の粗い篩にかけたようではありましたが,片っ端からレコード紹介していきました。
CSNY(クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング)➡ビーチ・ボーイズ➡サンタナ「Black Magic Woman」➡レッド・ツェッペリン「LED ZEPPELIN Ⅱ」➡グランド・ファンク・レイルロード➡ニール・ヤング「After The Gold Rush」なんていう選曲の流れもありでした。
とにかく,1972年頃まではそんな感じだったんです。